整体業界への入門から修行を経て開業、そしてオリジナル頭蓋骨調整テクニック “ことう式 あたまの整体®” 開発、整体業界DVD教材の販売No.1、表参道サロンへの移転までの古藤格啓の整体師としてのライフストーリーです

この業界に入ったのは大学を出て数カ所の会社に勤務し、そこを辞めてイギリス・スペイン・アイルランド・アメリカ・カナダなどを放浪したあとのこと。
帰国後の仕事はプロレスのフリーライターでした。
しかしプロのライターになるという夢は儚くも散り人生がどん底になったあと。
その後会社員を経て整体学校入学。

学校を無事に卒業し、プロになって5年ほどした時に横浜市・日吉にて独立開業。
開業前からいろいろな流派の門を叩き、いわゆる修行を敢行。
他にもいろいろと勉強会に出て自分の整体道を模索し始めましたがまだまだ頭蓋骨の調整は考えに及びませんでした。

開業して1年目、そんな時に手術にまで至る病変が自分の頭蓋骨の中に出てしまいました。
しかしそこが全国の療術家の先生達に多大な影響をあたえることになる『ことう式あたまの整体®』という新世代の頭蓋調整の始まりだとは自分でも知る由もありませんでした。
その鼻の奥の骨を割る手術で麻酔薬が効きすぎて心肺停止寸前。
手術で死にかけるという経験をしたことによる死の淵から始まった古藤格啓のオリジナル頭蓋骨調整開発のストーリー。

整体業界入門前夜 〜 会社員時代 〜

時はバブルが完全に崩壊し、大学を卒業しても就職すら困難な閉塞的な時代。
1994年。
OASISやOFFSPRING、小沢健二のLIFEなんかをよく聴いていた頃。
就職活動に失敗したと思いきやバリバリ年功序列で普通ならなかなか入れない半官半民のけっこうお堅い会社に入ることが出来た。

そこは当時の労働省の外郭団体。
つまりはお役人引退後の天下り先だ。サイアク。
天下りをしてきたその人は仕事中でもサングラスをかけていた。そんなお偉いさんがソファにふんぞり返って部下を怒鳴り散らす。
ランチでビールなんかを飲んできた時はご機嫌になるかキレるかのどちらか。
それを黙って甘んじて受け入れていた当時の社員は何を思っていたのだろうか。
そんなお偉いさんにランチに付き合わされた時はビールを勧められたこともある。
新入社員の僕はそれに従って昼間から酔っ払っていたが(笑)

仕事中に直属の上司であるM課長がデスクで難しい顔をしていた。
印鑑をもらいにデスクの横に立つ。
そのパソコンを覗くとポーカーの画面が見えた。仕事中にパソコンのゲームをしているのだ。
その画面を消そうともせずなにやら僕に小言を言って印鑑を押した。
適当な感じで。

そこには一生懸命業績を上げる努力をしなくても大丈夫だ、という安堵感があった。
適当に仕事をしている割には一生懸命会社内での立場を確保。
派閥争いでの立ち回りということを目の前で見せてもらった。
僕はその立ち回りにたった2ヶ月で失敗した。

その課長は昼休みのたびに頻繁にどこかに電話をしていた。
聞き耳を立てると毎日仕事中に奥さんへの電話。
今日はお昼カレーだったから夜はカレーはやめてね❤︎なんていう電話を毎日。

他の課の課長さんは昼間はずっと新聞を読み、仕事中の女子社員に冗談ばかり言ってはニコニコしていた。
悪い人ではない。

しかし彼が忙しくなるのは決まって夕方16時から。

残業代狙いだ。
そして皆が帰る17:30過ぎから忙しい忙しいと言って仕事を始めるのだ。
またか。。。

そこにはそういった一般常識とかけ離れた社内の常識を指摘する人間はいない。いくら僕が若かったとしても、それがとてもマトモな仕事とは思えなかった。

決して人間的には悪い人たちではないその人達が持っていたであろうその無関心さの裏には「大人の諦め」もあったのだと歳を取った今ではよくわかる。

しかし未来のある若かった僕にはこの状況を理解しようとしても無理だった。

会社は腐っていた。

食いっぱぐれることのない安心感と過度な無関心。
そして密かに抱える絶望感。

いつの間にか僕は体調を崩していた。
まだ勤め始めて3ヶ月しか経っていなかった。

このまま会社に行ってたら精神的におかしくなりそうだ。
会社は僕のことをどうでもいい感じで扱っていた。

1995年1月のある日、ランチでビールを飲んできて昼間から酔っ払っていた部長と奥の部屋で喧嘩をして辞めることを伝えた。昼間から酔っ払っているサングラスをかけたオッサンとまともに話せる訳がないだろう。

まぁその喧嘩の数日前にパソコンでゲームばかりやっていた例のM課長の胸ぐらを掴んでいたという社内事変を起こしていた。それを叱られていた時の出来事だった。
入社して10ヶ月目の出来事。

社会人1年目から波乱を起こしてしまった。

もちろんその翌日には辞表を提出していた。

〜 フリーライター時代 〜

そんな感じで会社を1995年3月いっぱいで辞めた。会社は1年で終了。
学生時代にやっていたアルバイト先のドトール所沢店に再びお世話になりながら、夜はプロレス雑誌(週刊ゴング)のフリーライター(ゴーストライター)をやっていた。

プロレスは好きだけど体格的にプロレスラーにはなれないとわかっていた子供の頃。
違う形でプロレスに関われる憧れの仕事だった。
大好きなプロレスを見て好きに文書が書けるのだ。

こんなにうってつけの仕事はない。

超絶プロレスマニア(笑)な僕は自由な時間がある大学生の頃には年間50回くらい(!!)はプロレス会場に足を運んでいたのでいつのまにかプロレス雑誌関係者とも知り合いだった。

面接も何もない。
僕の大好きなプロレスライター(業界ではかなり有名なプロレスライター兼ブッカー)が会場でよく会う僕のことを気に入ってくれていた。
「そうか、じゃあコトーちゃん、明日から手伝ってくれ、明日17時に後楽園ホールに集合」
それだけだった。

ある日、プロレスのメッカ、東京後楽園ホールで仲が良くなったプロレス関係者に聞かれた。

今何やってるの?アルバイトです。じゃあ時間があったら手伝ってよ。大学出てるのか?じゃあ文章は書けるか?書けます。

そんな会話ひとつであっさりとその師匠のゴーストライターになってしまった。

それは憧れの職業にあっさり就けてしまい、拍子抜けした気持ちとワクワクする気持ちが同居した不思議な気分だった。でもそれは同時にこのプロレス業界で特定権益を持った人間から利用される側にまわったことを意味していた。

そんなこととはつゆ知らずプロレスバカな僕は高揚していた。
そして趣味でアメリカにプロレスを観に行くことが仕事のひとつとなっていた僕はアメリカのプロレス情報を雑誌社に提供することとなった。
しかしそれは件のフリーライターの師匠に利用された無銭の仕事であった。
1年近くそのライターY氏に仕えてゴーストライター的なお仕事をやったりCS放送のプロレス番組の制作に関わったりしたけれど1円たりともお金をもらったことはなかった。
ただいつもご飯だけはお腹いっぱい食べさせてくれた。それは業界の洗礼だったのかもしれない。でも貧乏生活が続くことが我慢ならなかった。

趣味を仕事にするもんじゃない。
好きだからやり続けることができてしまった。
アルバイトをしながらタダで仕事を請け負ってる自分が虚しくなった。

おかげで生活は破綻、健康も損ねる寸前。
そして辞めた。
というか諦めた。

人生でいくつめの挫折だっただろう。

ここでのそういった理不尽な経験はその後の自分の思考形成に大きく影響することになる。

そうして全てがイヤになり逃げるように数ヶ月ほど海外(イギリス〜スペイン〜アイルランド)を放浪。
さらにはアメリカにもプロレス巡礼の放浪の旅。
なにも考えない時間は僕を癒してくれた。
苦労の連続であれだけ痩せてしまった体が5kgくらいあっという間に戻った。

しかし何の縛りもない海外で今後の人生を考えると未来への不安だけは心の真ん中にいつも大きな存在としてどっしりと構えていた。
海外に持ち出したお金が底をつく日が来てしまいしぶしぶ帰国。

だまって海外に行ってしまったので帰国時には親や親戚からめちゃくちゃ怒られた。
しばらくの時間を、人生を無駄にしてしまった感は否めなかった。

でも何がどうとかではなくて、うまく説明はできないのだけれどもクソ度胸がついたことは確かだった。
海外の文化に触れ、人と接し、慣れない食事を摂る。
その無駄とも思えた時間が自分の青春時代の輝かしい時間として今でもしっかりと息づいているし、それが今でも生きてゆく力になっている。

〜 帰国後にまた挫折 〜

帰ってきた時には無一文だった。

慌てて就職活動をして健康食品の会社勤めをするもののそれも失敗だった。
いわゆる今でいう超絶ブラック企業。
1回こういうところに入るとその後からまともな仕事に就けなくなることが身に沁みてわかった。

僕の家系は医療系、役人系の仕事をしている親族が多い。
その関係なのか健康食品の会社が目にとまった。

いわゆる健康食品を扱う会社で各種サプリメントだとかローヤルゼリーだとかビタミンなどを売る直接的なルート営業。
そういったものを健康を崩しかけた人たちもしくは完全に壊してしまった人たちに売る仕事だった。
体の悪い人の手助けということに未来の希望を見出した。

ルート営業なのでお客さんの家に行ってお茶なんかを飲みながら雑談をすることも多い。まだまだ昭和的感覚の残る仕事であった。
そこでのお客様としたお話がたくさん心に残っている。
ありがたいことに年配のお客様には可愛がられた。

でも片岡さんという年配の女性のこの一言はとても痛かった。
「あなたのところのサプリメント飲んでるけど膝の痛みは変わらないねぇ。」

こうなったらそれを自分で治せるようになってしまえばいいのではないか?
などと冗談で同僚と話していた記憶がある。

ところがある時にこの会社の商品のヤバさと商売の仕方(他のメーカーでは扱わないようなB級の粗悪な物をとんでもない高値で売る)を知り急に冷めてしまったのだ。

そんな中、同じ課の先輩女性Fさんとその会社のエースであるK部長が不倫していたことがわかった。わかったというか頻繁に会社の近くでよく腕を組んで歩いていた。アホか。

仕事場でも痴話喧嘩が始まる始末(苦笑)
そして時には同じ空間に僕とその2人の3人だけでいることが気まずくなるほど親密にしているような中で仕事をしていた。

そのふたりは陰口でとにかく部下のことを小バカにするのだ。
ふたりの会話がとても怖かった。そして気に入らない部下への陰険ないじめが始まる。仕事を教えているという体を取りながら。
偶然聞いてしまったのだが他の課の同僚のことをこれでもかとバカにしている。それはもう聞いていられないほどだった。
腹立たしさを越えて呆れてしまった。

そんな折にハワイへの社員旅行が決まったが僕は行かなかった。
もちろん会社で行くので全額出してくれるのだが不倫カップルが他にも1組いて普通の会社のような人間関係の中での社員旅行ではなかったし、あんな質の悪い商品を高額で売る仕事で得た利益で連れて行ってもらえるハワイなんか行きたくないという自分なりの正論からだった。
さらにはその1ヶ月ほど前にその不倫上司カップルに仕事とプライベートを区切ってくれないかと同僚みんなで申し出てしまった気まずさもあった。

おかげでハワイへの社員旅行の間は旅行に同行しなかった僕の悪口で盛り上がっていたようだった。
それは聞くに堪えなかったと旅行に同行した同僚が申し訳なさそうに僕に吐露した。
僕はその会社から逃げることを決意した。

そして未来への不安を払拭すべく医療系の家系という使命感を持って入った会社もまた考え直す時期に。

ある日の営業帰りに社長を含めて社員で飲んでいる時に社長の非人道的な発言に僕はキレた。
人間を人間とも思っていないような冷酷な発言をした社長に怒りを感じ楯突いた。居酒屋のテーブルの向かい側に座っていた社長のネクタイごと胸ぐらを掴んでしまったのだ。
その場は凍りついたが周りが止めてくれたので事なきを得た。
今考えればどっちが非人道的かわからないが(苦笑)

次の日にその是非を問うために社長が詰め寄ってきた。
辞意を伝えてその場で帰ってきてしまった。
あっちはブラック企業、こっちは不良社員だ。

どちらにせよ結局はまた人生が頓挫してしまったのだ。

その帰りの夕方の電車は空虚な気分。あれほど憂鬱な電車の時間はなかった。
今でも池袋から帰る西武線のその光景は忘れない。
シートの一番端っこに座ってだまって息をしていた。

〜 整体業界からの不思議な誘い 〜

夕方に飛び出すようにして帰ってきた不良社員の僕。

その時はお金が無くて、親に頭を下げて実家に戻っていた。
帰宅してまずはマンションの薄暗いポストへ向かう。

ポストを開けると整体の学校から入学案内のようなものが届いていた。
ウチの母宛のものだ。

そのころの母は中学校の養護教諭、つまり保健室の先生をやっていた。
退職を数年後に控えてその後は鍼灸の学校に行こうか、はたまた整体の学校に行こうかなどと考えを巡らせていた時期だったらしい。
(「だったらしい」というのはその時までそんな話は軽くしか聞いていなかったのであまり興味がなかった)
その母がいろんな学校からパンフレットを取り寄せていた時期と重なっていたのだ。

なんとなく手に取ったその封筒には僕にとっては衝撃のひとことが。
「これであなたも独立開業!!」
この言葉の破壊力と言ったら当時の僕にはインパクトがスゴかった。

会社で社長の胸ぐらを掴んでブチ切れて辞めて、その日にこのフレーズだ。

母宛だったが勝手に封を開けて整体学校の入学案内の冊子をむさぼるように読んでみた。
そしてこれはいけるかもしれないという盛大な勘違い(笑)

でも若いうちはこの勘違いも大事な要素であり特権でもある。

こうやっていろんな偶然が重なり『整体』という仕事に魅かれていく。

なにがそんなに魅力的だったか。

それは・・・『独立』できるから。

正直に言えばそのころは仕事なんてなんでもよかった。
ひとりで働けて食っていければそれでよかった。
会社勤めをしてあんなにくだらない大人になりたくない、ああいった上司なんかの下で働きたくないと思い込んでしまっていたせいで、人と一緒に働くことがとにかくイヤだったのだ。

いろいろ整体の業界の事を調べていたが僕は数年掛けて何か士業の資格を取りに専門学校へ行くかどうか迷った。
というのもいくつか整体学校の見学に行ったがどれもパッとしないのだ。
汚いしセンスなんてものは微塵も感じられない学校ばかり。
貧乏くさい人が出てきて事務員の人かな?なんて思ったらそこの校長だったり(笑)

せっかく動き出した気持ちが萎えるような整体の学校ばかり。

しかし「整体」という仕事の響きはなんとなく自分の未来が感じられた。
この直感に賭けてみたいと自分の中で決めたその頃貯金通帳を見てみる。

・・・

ない。
お金がないのだ。
全然足りないじゃないか。

大学の学費だって出してもらったのだ、ちょっと探りを入れながら父と母に話してみる。

もともと僕のことをドクターにしたかった医療系一家だったからこういった仕事に従事するということで案外話は早かった。

特に母は背中を押してくれた。

今の道を作ってくれたのは確実に母である。

これを書きながら僕は今それを思い出して泣いています。。。

そしてお喋りな母は叔母にそのことを話してくれて叔母までもが入学金の一部を肩代わりしてくれた。

そしてあっという間に整体の学校に入学することが決まってしまった。
そんなに気に入った学校ではなかったが全国展開している当時では業界では一番大きな学校それが「村上整体専門医学院」だった。

人生における流れとは怖いもの。
そしてその流れというものは実は素晴らしく背中を押してくれるものでもあるのだ。

〜整体業界初期〜

そうやって気がつけば飛び込んでいた整体業界。
早いもので2025年で29年目に入ってしまった。

そう『入ってしまった』という表現がぴったり。

だってこの業界の門を叩いたのは先にも述べたが一人で働ける仕事を求めてのものであって、なにがなんでも整体師になりたいと思ったからではなかったからだ。
現在でこそマイペースで仕事ができてかなり満足しているが、それもここ10年くらいのこと。
それまでは苦労の連続で何回かこの仕事を諦めかけたこともある。

整体の学校を卒業して最初に雇ってもらったのは同じ学校を卒業したOBの整体院。
なんだかずいぶんな働かされぶり(週6、朝9時〜夜10時、昼休みは15分くらい、給料は交通費込みで10万ちょっと)であっという間に心臓がやられて不整脈が出てくる。
脈が飛びまくる。自律神経が完全にやられた。
と同時に右手親指がひどい腱鞘炎になり退職せざろう得ない状況に。

また挫折がやってきた。

右手親指に腱鞘炎が治るまで3ヶ月ほど学生時代にやっていた池袋のビジネスホテルでのアルバイトでしのいだ。
あのみすぼらしい気持ちはもう味わいたくない。
整体の学校を卒業して半年もしないうちに手を痛め心臓をおかしくしこの業界への不安感が増してしまったのだ。
戻ろうかどうしようか。
あの時の逃げる気持ちを受け入れてしまったならば今と同じ人生はないのだ。

そうこうしているうちに業界に戻ろうと考えていた。当時はFrom Aという就職情報誌があった。なんとなく気になった整形外科に連絡をしてみる。国家資格を持っていない僕は面接に行き合格。即日リハビリの助手として働くこととなる。

国家資格保持者ではないのに正社員扱いで雇ってくれたお髭の院長先生には今でも感謝している。
僕のような立場の人間は普通整形外科には入れない事がほとんど。
それを決断してくれた院長には今でも感謝している。

でもその病院で迎えた初日。国家資格をお持ちの先生からすでに指導を越えたちょっとした意地悪を受けた。またもや洗礼だ。

耐えることには慣れているはず。そう思ってはいたがずっと続く国家資格の無資格者扱いが続き、アトピーが再発。そしてどんどん酷くなっていく。アトピーはメンタルもかなり関係していることが自分の体でよくわかった。

それでもクライアントからはそんな酷い扱いを受けることなく、日々成長できた自分もいた。

いくつかおもしろいこともあった。病院内で許されていないはずの髭を生やしてみた。生やしてみたかったのだ。というのもいつも年齢より下に見られることが多く、特に男性のクライアントからナメられることが多かったからだ。

髭を生やせば少しは年齢も上に見られるような気がしていたのだ(笑)結果それはどれほどの効果があったのかはわからないが、思ったよりクライアントから好評だった。すると…リハビリ科の全員が髭を生やし始めたではないか(笑)みんな僕の真似をした。バカにしてくる割にはみんな僕のことを気にしてたんだ、そう思った瞬間対等になった気がした。

次にチャレンジしたのはパーマだ。長髪にしてパーマをかけてみた。それもツイストパーマというチリチリで頭が膨らむようなパーマが当時は流行っていたのだ。白衣を着ているのに髭にパーマという自由過ぎるリハビリの先生というイメージが待合室での患者の間でも話題にあがるほど。

当時はまだ老人の医療費は無料だったので、意味もなく毎日リハビリの患者で溢れかえっていた頃だ。地元の有力者の奥様が待合室のボス。そのボスに気に入られたのと同時期に僕のリハビリで良くなっていく人が増えてきた。すると指名率が上がってきたのだ。本来なら指名は許されない。呼ばれた順にリハビリを行うのだが、その地元の有力者の奥さんがワガママを言い出した。

古藤先生じゃなきゃいやよ。

渋々認めざるを得ないリハビリ室の部長。

そのあたりから同僚の僕に対する風当たりが強くなってきた。

そりゃそうだろう、一番あとから入ってきた無資格者なのにリハビリ室での指名がかかるのだ。
無資格者が指名率No.1なんてそりゃおもしろくないよね。
すると、出勤して控え室に入ると僕の白衣がなくなっていたり、サンダルがゴミ箱に入っていたり。そういったことも増えてきた。大人のイジメにしては頭の悪そうなことをしている奴らばかりだった。

国家資格を保持していない僕はそこでは人権はなかった。
まるでキャバクラの舞台裏と変わらないヘンなライバル意識剥き出しの世界がそこにはあった。

そんなリハビリ室の人間関係だけは苦しんだがこの業界に入って初めてまともなお給料をいただくことができた。
初めてボーナスや毎月の家賃補助などというものを貰ったのだがこの時が人生最初で最期(笑)
膝の手術なども見せてもらったり注射の現場を見せてもらったりレントゲンの見方などを教えてもらったりと本当にありがたい時間だった。

もうひとつとてもありがたい出来事もあった。

ある日突然院長から呼び出しがかかったのだ。

「古藤くんはカーテンの中で何をやっているの?」

ついにバレた。ヤバい、怒られる。

カーテンに仕切られていたリハビリ室のベッド。そこでは電気治療の後に軽いマッサージ的なことをしなければいけなかったのだが、僕は勝手にかつての師匠の下で勉強していた関節の可動域を戻すテクニックを使っていたのだ。

すると定期的にその患者さん達がドクターの診察を受けなければならない。そこで院長に皆が話していたようだ。古藤さんのリハビリが他の人と違ってとても良い、と。

詰められた僕は意を決して院長に話をした。「すみません、患者さんを目の前にするとどうしても良くしたくて勝手に関節の可動域を拡げるテクニックを使っていました。クビでも構いません」

すると僕の想像する言葉とは真逆の言葉が院長から帰ってきた。

「そうだったのか。わかった。僕はウチの病院の評判を上げてくれてありがたいと思っているよ。それなら君のテクニックを使っていいからどんどん治してくれ。僕が認めた患者であれば昼休みに整体をしてもいいよ。僕と話し合いながらその患者を決めていこうか。そして患者から直接お金をもらいなさい。ウチには入れなくていいからね。頑張って。」

そして毎日のように昼休みにリハビリ室で1回¥3.000-の実費による『古藤の整体』が始まった。それをやっていると意地悪をしてきた上司達がカーテンの隙間からよく覗いていたのがわかった。みんな僕が何をやっているのか気になって見たくてしょうがない様子だった。それがわかるたびに見えないようにカーテンをそっと閉めた。

そこで整体をやる喜びを感じるようになった。院長のおかげで整体師としての自我が芽生えた。

皮肉だが病院の中での整体が僕を『整体師』として生きていく意欲を掻き立てる場所となった。そしてそれは半年以上続いた。

そこではそういった技術的な事よりも人間の心理的なものや医療業界の利権やリアルというものを見せてもらった。


この経験がのちの整体師人生においてどれだけ役に立っていることか。

そしてくだらない人間関係の中で、いつかそこにいたリーダー格の性格の悪いM先生やH先生を見返してやるという強い気持ち(復讐心にも似た)が芽生えたことも確かである。
どちらかというとダークサイド的なそれだった(笑)
時としてダークサイド的なそれは無類の力を発揮する。

そういったこともバネになり強くなっていくんだから、今では憎しみを持った人々が恩人となるという現象が起こる。

この環境に今ではありがたいという気持ちでいっぱいだ。

〜 整体院で RESTART 〜

そんないろいろあった整形外科で人間関係に疲れていた。

というのも明らかに感じる同僚からの嫉妬が日に日に増していき、とても居づらくなっていたのだ。そらは唯一の味方と思っていた一番近い関係のN先生からも強い嫉妬心を感じて気持ち悪くなったからでもある。

その頃に整体の専門学校時代にお世話になったO先輩に誘われて神奈川の金沢文庫にある整体院で働き始めた。

それはO先輩が僕のことを心配してくれての連絡だった。

「古藤、そろそろ整体の世界に戻ってこい。そうしないともう整体ができなくなるぞ。いつまでそんなリハビリ室で仕事してるんだ。そこは国家資格を持っている人の働く場所だ。お前は自立した整体師になりたかったんだろ。俺も死ぬほど忙しいから助けてほしいという事情もある。1年でいい、助けてくれ。俺の身体が持たない。お前しか頼るヤツがいないんだ。」

この言葉に動かされてすぐに院長先生に辞意を伝えた。ありがたいことに引き留めてくださったが意思は変わらなかった。そしてそこでも背中を押してくれた。決して多くはなかったが気持ちのこもった退職金までいただいた桑原院長には今でも感謝しかない。院長は今でもお元気にされているだろうか。

2000年7月。

そこはとあるスポーツクラブの建物内で親会社が運営しているいわばスポーツクラブ併設の整体院。

その時30歳。
月給10〜12万程度。
アルバイト扱い。

病院の時の給料の半分以下だ。またしても振り出しに戻る。

その給料から家賃の6万数千円を引いてその残りで光熱費を出し、食べていかねばならなかった。
洋服や趣味のものも買えず、大好きなアーチストのLIVEにも行けず。
恥ずかしくて昔からの友達にも会えないこと数年。
限られた友人が数人いてくれたことだけが救いだったが孤立を深めてしまった。
休みの日は自転車で海岸に行き金沢八景の海を見て過ごす。
お金も無く孤独でそれしかできなかった。

日々葛藤の連続だったがそれでもやり続けるのは独立開業という夢があったから。
今から考えると修行時代は金銭的な苦労にまつわる話が必ず絡む。。。

しかしその金沢文庫の整体院では働き始めてすぐに予約が満員に。

というのもスポーツクラブの入り口の横に併設された整体院だったのでクライアントはほぼそのスポーツクラブの会員さんだった。

そして筋トレやランニング、水泳をやって身体を傷めた方達がわんさか来た。
そしてひとりの「整体師」としてしっかりとデビューできたのはここが START。

まだ未熟なのにあれだけのクライアントがついたのは、今考えても奇跡でしかなかった。
日々とんでもない数のクライアントに整体をし続ける日々。
我々の世界は経験だけが真実。

たくさんクライアントを診た経験からの成長と喜びはここで培われた。

そうやってがむしゃらに整体をしつづけること8ヶ月。
疲弊はしたがこのあたりから整体の道で食べていけるのではないかという自信が出てきた頃。

その先輩もスポーツクラブ会社の社員として雇われ院長だったのであれだけ仕事をしながらもお給料は全然もらえてない状況だった。

そんな中その先輩と開業することに。
ふたりの月の売り上げとふたりの給料があまりにもかけ離れていたのだ。
売上は2人で130万、給料は2人で40万。
差額の90万の行方は?(笑)
いい加減バカバカしくなってしまったのだ。

しかし経験が未熟なのにそんなことを考えるというのは若さゆえか。

この満員は自分の実力だけということではなく立地、会社としての看板というものが良かったというのもあるのだ。
自分の実力がわかっていない、そんな若造だった。

しかし「独立」するという誘惑のほうが勝る。
先輩と物件を探し、僕の父親を保証人に立てて賃貸物件を契約し、本当に独立してしまったのだ。
その整体院のクライアントをみんな引き連れて(笑)

そしてそのスポーツクラブの社員のひとりである安田くんも誘って3人でスタートする体制。

2002年4月に横浜・上大岡で開業。

言ってみればこれが僕にとって初めての開業ということになるのでしょう。
これが後にかなりの黒歴史になるとも知らずに・・・(苦笑)

ここまではかなりスムーズに物事が進み恐いものなしの状態。
しかしイケイケの日々というものは思いのほか脆いもの。

その頃その先輩は糖尿病が酷かった。おかげで精神的にも不安定。顔のむくみも酷く、口臭や体から出るアンモニア臭もキツく、クライアントからクレームも出ていた。それもあり、あまりにも身体が辛そうなので、同僚の安田くんと一緒に先輩に申し出た。

「先輩、少し休んでください。そうしないと透析になっちゃいますよ。経費は僕らが稼ぎますので数ヶ月はゆっくりしてください。」

すると…

優しかった先輩は理不尽でした。
「お前達はそうやって俺のクライアントを俺から奪う気だろ。そうやって俺を追い出してお前らのものにするつもりか?ふざけんな!!」

机を叩きながら激昂していた。

「お前がここを去れ、これは俺の整体院だ、お前を一人前にしたのは誰だ?」

先輩、安田君そして僕の3人で力を合わせて開業したことをすっかり忘れているようだった。これは先輩がそうしたんじゃない。病気がそうしたのだ。そう信じたいが、あれほどの言葉が出たらもう無理だった。

そりゃそうだ、自分の金銭的な不正が僕に明らかになってしまったからだ。ここは3人で経営していので、経費は全て3等分。のはずだった。

ある日金銭を管理していたPCの中身を見たら…一部の経費が先輩の口座に毎月流れていた。先輩は整体師の前は元税理士事務所で働いていたからお金のことは俺に任せろ。そう言いながら後輩2人からお金をむしり取っていたのだ。

これ以上続けることはもう無理。
でもその物件の保証人は僕の父親。
じゃあこの物件も引き払いますと言ったら焦る先輩。
物件の契約のことを忘れるくらい先輩も焦っていたのでしょう。

その後保証人を先輩の奥さんに譲渡し、正式に撤退。

結局は2002年の12月いっぱいで僕がその整体院を辞めることにした。

辞めると決めた日には泣いた。
酒を飲んでも酔えない。

あの夜はバーボンを1本飲み干してしまった。

あれほど泣いたのは大人になって初めてのこと。
今でもあの日のことを思い出すとと胸が痛む。

とても大好きで本当に尊敬していた先輩が売り上げの一部横領、そして逆ギレなどというつまらない形で裏切られるとは。

心から信頼していた人に裏切られた経験による人間不信。

これも僕がひとりでサロン運営をしている理由です。


あれだけ信頼していた人に裏切られたことは人生で初めてでした。

やはりどんな人でもずっと一緒にはいれないし、何らかの心理状況の変化なんかもあるのは頭では理解できる。

しかしあの時先輩があの整体院を追い出されなかったらずっと一緒にやっていたかもしれない。(横領の件も知らなければ)
それくらいお世話になった方だったし尊敬していた。

手取り足取り関節の取り方を教えてもらい、家でご飯を食べさせてもらい、一緒に出かけて笑いあったあの日々は今でも心の片隅で生きている。
あの時間だけは嘘ではない。
これも僕の青春。

でも今では恨みも何もないまっさらな気持ちしかないのだ。
そんな関係だけど感謝の気持ちだけは持っていたい。

まぁその後、その先輩はとんでもないことをしでかして新聞に載ってしまったが…(ガチ過ぎてここでは書けませんので僕に会ったら直接聞いてください)

その前に離れていてよかったのかもしれない。

やはり人というものは難しい。
いざという時は自己保身が先立つのか?
それを実感した強烈な出来事だった。

〜 拾われて救われた 〜

自分たちで開業したにもかかわらず突然辞めることになった整体院。

すぐに仕事探すべくこの業界での数少ない知人に電話をしてみた。

「ちょうど今月で人が辞めるから年明けから来なよ」と言ってくれた先生は村上整体学校で当時先生をやっていたY先生。
同い年にも関わらず業界に入ったのが早かったしおもしろい考え方を持っていたので整体院運営を手伝っているだけで経営感覚も勉強させていただいた。

Y先生は頚椎のオリジナル操法を駆使してとんでもないリピート率と売り上げを誇っていた。

そして勤めている間に隙間時間を作っては丁寧にその操法を教えてくれた。

そこで気がついたのはセミナーや勉強会に行かなくても自分の中の真理を追求し既存のテクニックの考え方を広げてオリジナルへと昇華させることができるのだということ。

この意識がいずれ「あたまの整体」として自分だけのオリジナル頭蓋調整を作る礎となったのも確かだ。

やはり人生は出会いとタイミング。

そしてY先生のところでは歩合制でやっていただいた。
リピートが上がればお給料は上がる、そんなシステム。
クライアントがつかなかったらお給料は下がる。

これは経営感覚が磨けた。

そのシステムのおかげでプロ意識も芽生えた。
いずれ僕が独立して辞めていく人間であるということがわかっていたのにしっかりと育ててもらった。
あの先生に会ってなかったら僕の整体師人生はまた違ったものになっていたと思う。
恩師となった人はいつも忘れられない。

そこでは歩合で4割、毎月25〜27万くらいをいただいていた。
それでも30歳を越えている自分にはまだまだという意識があったけどこの業界では仕事が未熟な人間はもらえなくて当たり前。
それでも十分に満足だった。

そこで雇われてちょうど1年が経つ頃にそのY先生が不安定になってきたのだった。仕事のし過ぎなのか。心が壊れていくのを横で見ていたこちらも心が痛かった。

朝、Y先生から電話がかかってくる。「あ、古藤ちゃん?ダメだ…しばらく仕事に行けない。1週間分の仕事をキャンセルしておいて…また行けそうになったら連絡する…」そういうことが頻発した。それと同時に整体院に一緒にいてもいつも苛立っていてまともに話もできなくなっていた。

こうなったら自分の力で開業してみよう、そう思えてきた。
それは頚椎の操法をある程度マスターして今まで自分が培ってきたテクニックと同居させることができたという自信もでてきた。

頚椎の調整ができるようになったら開業しよう。
そう思っていた僕はその頃から物件探しを始めることにした。

〜 日吉で独立開業 〜

自分にしては背伸びをした家賃だったが、いろいろな方の支えがありとてもいい物件に出会えた。
しかし開業の時も恥ずかしながら貯金もそこまでなくここでも両親に頼ることに。

前職を辞め2004年3月21日に横浜市日吉にて 整体院K-STYLE をオープン。イメージカラーはオレンジ。

オープン直後から金沢文庫、上大岡、大和市と僕が修行時代を過ごした場所からクライアントが来てくれた。
お花もたくさん送っていただき、感激したことを今こうやって書きながら思い出している。
最初にしては上出来ともいえる整体院運営(笑)

そして初めて予約表が完全に埋まったのは同年11月3日。
印象的な日。僕に取っては極上の記念日だ。

半年ちょっとという自分でもびっくりするようなスピードで僕の仕事の理想形が出来上がった。過ぎてしまえば開業してからの苦労も吹き飛んだ。

その次の日、夢だったROLEXの時計を買いに行きファーストROLEX(サブマリーナデイト)を現金で買ってきた。

それは決めていたことだった。

予約表が全て埋まったらそれを記念に買う。そしてその時計と共に整体という仕事で時を刻んでいく。明るい未来への片道切符を買った気分だった。
そこからはハイな状態で仕事をやりつける日々。

その2004年から整体師がまったく整体のことを書かないブログ(日吉★マニアックス)を始めてそれが思ったよりも人気が出てしまいそこから続々とクライアントが集まってきた。

また当時としてはかなりセンスのいいホームページを友人に作ってもらいそれが全国の同業者をびっくりさせたこともある。

そのホームページもおかげさまでかなりパクられましたが(苦笑)今では整体業界で当たり前になった表現(こんな人は来ないでくださいという記述)や情報公開もその時に僕が書いたりコンテンツを作ったという自負はある。
それをいつの間にかみんながやり始めてそれが業界の当たり前になっていくんですね。
いまでも他の先生のホームページを見ると不思議な気分です。

当時ブログは調子に乗って毎日更新。
楽しくて楽しくて日ごとに拍車が掛かる。
日吉でのブログ人気をいいことに仕事がどんどん入り運営状況も右肩上がり。
順調極まりない状況が続いた。本当に恐ろしいほどに。

しかしそれが悲劇のスタートだったとはつゆ知らず。
人間うまくいくとタガが外れる時が必ずきます。

それは2005年の出来事でした。

思い起こせば東横線の日吉で 整体院K-STYLE として独立開業して1年半ほど経ったころでしょうか。
その頃は独立開業をして軌道に乗ったことが何よりも嬉しくてまったく休みも取らず朝10時〜夜22時過ぎまでぽぽ毎日仕事をしていました。

仕事がたくさんあるのが嬉しかったのです。
この業界でプロなのに満足に食えない時代が6年も続いて生活も困窮していたので目の前にこなせないほどの仕事があるのが自分がやっと認められたようで誇らしくそれはそれはそれはとても嬉しかったのです。

しかし所詮我々は限界のある生身の人間。
かなり無理をしていたことも手伝ってかある時に「耳鳴り・めまい・頭痛・目の痛み・飛蚊症・過剰なストレス反応」が一気に襲ってきました。
それと共に精神的にも落ち込んできました。

ある時にお風呂のお湯に僕の髪の毛が大量に浮いていることに気がつきました。
そう、ストレスで大量に脱毛してしまったのです。

しかしそのシグナルすら無視して仕事を続ける。
これはもう若さとかではなく精神的に追い詰められて自分の体や精神状態の声が聞けなくなっているという一種の躁状態でした。

〜 体調を崩し手術へ 〜

結果仕事のやり過ぎで右目の急で極端な視力低下(1.5→0.1)、右鼻から空気が通らなくなりひどい副鼻腔炎に。
それに加え右耳の突発性難聴に襲われて聴力がほとんどなくなってしまいました。
つまり顔面の右半分の目・耳・鼻という感覚器がおかしくなりました。

そして近くの耳鼻科に行ったことが間違いでした。
その耳鼻科ではプレドニンという強い薬(副腎皮質ホルモン)を処方されたのですがその薬の副作用で筋肉の力が抜けてしまい歩けなくなってしまいました。
家の中で意識はしっかりしているのに立てなくなり、階段から落ちて床に這いつくばってしまいました。
当時はまだひとり暮らしだったので、あの時の不安感は言葉にできません。

そこの先生の言うとおりにしても何も改善しないどころか日に日に頭痛が酷くなる一方。
仕事にもかなり差し支えてしまい仕事量を減らす方向に。
しかしその時はもう遅かったのです。

症状が限界を超えてしまってからもその耳鼻科に通っていました。
最後にはその先生もさじを投げるような言い方。
「仕事を辞めて寝てれば治る!」
確かに仰る通りではあるのですが、こうなるともう信用も何もありません。
あとでわかったのですがその耳鼻科は「仕事を辞めろ」「寝てれば治る!」とばかり言っては患者と口ゲンカする地元でも有名なトラブル先生でした(苦笑)

その後中目黒の大きな病院の耳鼻科に転院するとそこにはたまたま耳鼻科の手術でも有名な先生にあたりました。
その先生は診察をして驚かれました。
「あなたはなんでこんなになるまで放っておいたの!?」
「いえ、仕事場近くの耳鼻科に1ヶ月ほど行っていました」
「その先生は何を診ていたんだ!どこの何ていう先生?」
耳鼻科の先生も驚くような処置の悪さだったようで。
そして同業の先生が申し訳ないことしたねとまるで代わりに謝るかのような言葉でした。
だってもう耳鳴りや副鼻腔炎は薬で治すようなレベルではなく完全に手遅れな状態だったから。

「ここまで副鼻腔炎がひどいのは鼻中隔の曲がりが原因です。それには鼻中隔を矯正する手術しかないでしょう。」

その言葉に愕然としたのを覚えている。

結果1ヶ月後に手術が決まりなんとなくホッとしたことも。

〜 手術で心肺停止寸前に 〜

手術前日の入院。
これで頭部の苦しい症状から解放されるという安心感と全身麻酔で手術に向かうという不安感が入り混じりなんとも言えない手術前夜。
この時はまさか手術中に死にかけることになろうとは思いもしません。

手術当日はベッドからストレッチャーに移って麻酔の点滴を入れられると3秒で意識が無くなりました。

通常ほとんどの方は麻酔を入れてもストレッチャーに乗って手術室に入るくらいまでは意識はあるもんです。
それが3秒で気絶(笑)
腕に麻酔薬が入った点滴の針を刺した瞬間にオチるという・・・

(入院すると一週間以上仕事復帰ができないので前日まで思いっきり仕事をしてしまったのです。
まったくこの時のぼくの精神状態はどうなっていたのか・・・仕事に対する不安が襲っていたのでしょう。あきらかに自分の体の方が大切なのに。バカなやつです。)

そうなったのも疲れが溜まった状態で入院したせいでしょう。
この麻酔が僕の人生を変えることになろうとは・・・

1時間程度で終わると言われていた鼻中隔矯正の手術でしたが2時間経っても3時間経っても手術室から出てこない。
そうこうしているうちに手術室から看護師が出たり入ったり慌ただしくなってきました。
さすがに付き添いの父親、母親が異変に気付くほど緊迫した状況だったそうです。

特にうちの母親は看護師免許や助産婦の免許も持っているので病院のことも普通の方よりは知識があります。
〜これは何かが起こった、息子は死ぬかもしれない〜
そう思ったそうです。

手術室から出てくる看護師をつかまえて状況を聞いてもスルーされる。

ますます怪しく思った母は女性看護師を思いっきり怒鳴りつけて聞いたそうです。
何が起こっているのか言いなさい、と。

そこで看護師が漏らした言葉は麻酔により心肺停止寸前です、ということでした。

でもぼくはお花畑を見た記憶も亡くなっている祖母が迎えにきたことも覚えていないので本当の本当にピンチではなかったのかもしれない。

でも僕は生きていた。

なんとか無事に心肺停止を免れて手術室から生還したのです。

(この件については後日この病棟で仲の良くなった看護師のひとりからこの手術室での裏話をこっそりと聞いて自分でも驚きました)

〜 頭蓋骨のズレ? 〜

心臓は動いていたものの病室に戻っても意識が戻らなかった。
目覚めた瞬間、目の前には父と母が僕の顔を覗き込んでいた。まるでドラマのようだったことを覚えている。

そして僕もしゃべろうとしても口がまわらない(笑)
まだまだ麻酔薬が切れていないようでした。

その時のことを母に聞くと何を言っているかわからないし、とにかく僕の体から漂う麻酔液の匂いが半端なかったそうです。
もしかすると麻酔液の量をミスったのかもしれません。

もちろんそのことを病院に聞いても何も返答はありませんでした。

そして入院生活を送り死にかけるという大変なことが起こっていたことを実感する余裕もなくただただ手術した鼻の奥の痛みと、鼻の奥の奥まで死ぬほど詰まっているガーゼ(笑)で呼吸のできない苦しさと戦っていました。

退院後半年間ほどダルさが続きましたがそれを無視してまた働き続けました。
手術後にあの仕事量・・・今考えるとゾッとします。

そしてある朝顔を洗っている時に驚きました。

自分の頭蓋骨がおもいっきりズレている!!

それまで整体師として仕事をしているにも関わらず頭蓋骨が動くということを信じていなかったので自分の手の中で感じる頭蓋骨のズレに恐怖のようなものを感じました。
勉強不足もあった。
しかしそれだけではなく言い訳をするならば・・・整体の学校時代〜プロとして現場に入ってからもずっと頭蓋骨を扱う先生がいなかったことも僕にそう思わせていた原因だったのでしょう。

環境とは怖いものですね。
知らないことを知らないままでも平気でいられるのです。

その日から自分の頭蓋骨を考察し続けることに至りました。

池袋のジュンク堂で頭蓋骨のことに関して書いてある本を10冊程度一気に購入し(こういった専門書は高いです、1冊15,000円〜20,000円くらいです)読みふけること数ヶ月。

それでも人の頭を触ること、ましてや調整することなど怖くてできませんでしたが自分の頭なら全然ヘーキ(笑)
毎日自分のあたまを触って捻じれを調整することを覚えていきました。

〜頭蓋骨調整の始まり〜

そんなある日当時の女性クライアントが施術の最中に突然お願いがあると言ってきました。

それは・・

「私ね、頭をこうやって押されると首がラクになるのよ。こうやってなんていうのが失礼なのはわかっているけどちょっと押してもらえないかしら。」

普通ならやらないけど(笑)この方はお互い信頼していた方だったのでこの時はすんなりと受け入れることができました。

そんな突然の申し出に一瞬躊躇しましたがクライアントを横臥位(横向き)にして側頭部にゆっくりと圧を掛けていきました。
両方の頭を施術して仰臥位(仰向け)にして頚椎(首の骨)をチェックした瞬間にカミナリが落ちるような衝撃を受けました。

なんと・・・

それまでどれだけ一生懸命施術しても取れなかった頚椎の捻じれが取れていたのです。
ほぼ完璧と感じられるほどに。

そこで頭蓋骨の調整が効果的であることを確信しました。

そうこうしているうちに毎日自分で頭蓋骨を調整したせいか突発性難聴で聞こえが悪くなっていた聴力が戻り始めたのです。

これはクライアントの頭蓋骨を調整するしかない。

でも他人にやるのは怖い。

そのモードからは抜け出せずにいました。

しかし今までの僕の整体で結果がバシッとでなかった方に頭の調整をすると取れなかった症状が劇的に消えていくのです。

ここからは早かった(笑)

毎日毎日来る日も来る日もクライアントの頭を触り続けました。
なんとなくパターンがあったりこことこことが繋がっているということが少〜しづつわかるようになってきました。

そしてどんな症状の方が来てもそこそこ対応できるようになり天狗になっていくのですが…(苦笑)
現実にまた休む暇などないくらい予約が入る→施術する→どんどん改善する→紹介されての来院が増える→予約が溢れる・・・の繰り返し。
さらに天狗の鼻は伸びていくのです。

人間としては本当に未熟でした。

〜 人気が出る整体院、その裏側は…… 〜

でも人間的な未熟さとはうらはらに頭蓋骨を触れる数、経験値が上がっていき、施術者としての勘も冴えてくる。
これは紛れもない事実でした。

そこでまた生き方を問う問題に遭遇します。

クライアントの無断キャンセルが増えたり自分の言い方が荒くなってきていることに気がつきました。

そして休みもなく働き続けちょっと精神的に疲れてしまったのです。

この時の感覚としては「働いている」というよりもいつの間にか「働かされている」という感覚になっていた。
自分の意思で仕事を入れているのに働かされているなんてね。
自分勝手に仕事やりすぎているのに被害妄想に近いですよね。
おかしいじゃないですか、そんなの。

「このまま日吉で働いていたら死んでしまう。」
大げさでもなんでもなく本当にそう思いました。

それを考えた瞬間の景色や窓から入ってくる光の具合、触っていたクライアントのことも鮮明に覚えています。

そして出した結論が日吉からの移転ということでした。

もう一回イチから出直そう。

そう思って物件探しを始めたのです。

〜 自由が丘移転 〜

数ヶ月後に紆余曲折を経てサロンの物件は自由が丘に決まりました。
それはもう一目惚れの物件です。
玄関を入って3秒でした。

妻と大げんかするほどのお家賃でしたが(笑)

しかしこの物件も借りるまでにはいろいろな困難が待ち構えておりました。

いい加減な不動産屋がこの物件の仲介だったので大変な思いをしましたがいろいろと手を尽くして物件の契約を勝ち取りました。

そして2007年11月11日 自由が丘 K-STYLE オープン

これで業界に入って3回目の新規オープンということになります。

そして自由が丘に移転しゼロからのスタートか、と思ったところ思わぬ反応に僕が戸惑いました。

東横線で6駅離れた自由が丘まで本当に多くのクライアントがわざわざ来てくれたのです。
あれだけの方が来てくださるとは夢にも思っていなかったので僕は大事なことに気がつかされました。

この時についてきてくださったクライアントは僕の宝物です。VIPです。

本当にクライアントを大事にするという意味がこの時に初めてわかった気がしました。
つまり日吉の時はそこまでは思っていなかったということ。
これはもう反省の域を越えています。

しかし移転を成功させてほどなくして2008年にリーマンショックの波が世間を襲うのです。

そして無関係かと思われた我がサロンにも不景気の波は容赦なくやってきました。
予約が一気に減ったのです。

景気の悪化による先行き不安な感じが世間を襲った。
真っ先に支出から削られるのは整体のような「余計な」支出だったのかもしれない。

そこで僕は小手先の経営術なんてダメ、とにかく腕を磨くしかない、オンリーワンなものを作るしかないと考えたが何を磨いたらいいのかわからなかった。

灯台下暗し。

そう、すでに自分の手にはオリジナルの頭蓋骨調整というものがあるじゃないか!!

それがあったことに気がつきそこから頭蓋骨調整を深めていくことになるのです。

そうやって今までやってきたいろんな考えを混ぜることで自分だけのオリジナルのものができていくのを感じた。
そして作り上げたオリジナルの頭蓋骨調整のことを誰にも言わず黙々とやり続ける日々が延々と続いた。

それはまるで鎖国です。

いわゆる勉強会やセミナーという類のものにまったく出なくなり数年。

鎖国をしたがゆえにガラパゴス化(他の種と交わらないがゆえに独自に進化を遂げたもの)した頭蓋骨テクニックを確立することができたのです。

〜 東日本大震災を経て 〜

自分の中だけで追求していくのは恐さを感じる時もあります。
誰からも評価されない恐さというか不安感のほうが勝るでしょうか。

しかし頼れるのは「自分の手」だけです。
自分を信頼しあらゆる流派から自分を遠ざけることで自分を追い込みます。
そうやって突き詰めて行くと頭蓋骨から全身が調整できることがわかってきました。

ヒントになるクライアントさんに恵まれたこともありどんどんテクニックも増えてきました。
自分の中で熟成させてきたものなので他の整体師や整体業界に公開する気はさらさらなかったのですが・・・

そんな時に2011年3月の東日本大震災

あの出来事が僕の中であらゆるものの価値観が変わってしまったのです。

明日には死んでしまうかもしれないということを実感し、

『人の役に立たなければ生きていても意味がない』
そう思った僕はまず自分の力で全力でできること、つまり整体の業界に貢献することで人のお役に立てられればいいかなと考えました。

そこからどのように頭蓋骨の調整法を世に発信したらいいのかを考え実行してまいりました。

そこで2013年5月に『ことう式 あたまの整体®』ということで商標を正式に取得し本格的に活動開始。

2013年5月からは本格的に頭蓋骨専門のセミナーを自主開催し、プロの整体師のみならず、各種療術家や女性セラピスト、エステティシャン、完全に異業種の美容師などにもこのテクニックを伝授しております。

本来、頭蓋骨の調整というと王道とも言えるアメリカ由来の頭蓋骨調整法があります。
最初はそこから学ぶのが普通なのですがそれはやはり西洋人が考え出したものです、僕にはどうもしっくりきませんでした。

そこで邪道ではありますが自分の感覚を頼りに手探りで調整を確立し独自の頭蓋骨調整法の道を歩んでおります。

〜 DVD 発売そして奥沢へ移転 〜

そうやって独自路線を歩んでいるためか美容業界の雑誌に取り上げられたり、日本の整体業界で一番信頼の厚い大阪の会社(カイロベーシック社)からインタビューDVDのオファーをいただき発売されたりと現場の整体だけではなく広く整体業界に貢献することができているようです。

その後にも僕にとっては信じられないようなお話をいたきました。

それがカイロベーシックから発売されている『ことう式あたまの整体®』三部作の DVD シリーズです。

正直なところ僕は今までこの業界の DVD なんてものは1本も買ったことがなかったのでそういった教材があることもよく知りませんでした。
なのでそれを自分が出すという現実感の無さといったら(笑)

しかしカイロベーシックの社長・古谷氏はスゴいです。
僕の好きなようにやらせろ、という無理を聞いてくれて飲んでくれました。
お墨付きをもらった僕はおかげさまで今までに業界には皆無だったとんでもない常識はずれの DVD (笑)を世に出すことになるのです。

ここから先は自分でも想像もしていなかった展開に。
DVD を観た全国の先生方がわざわざ僕のサロンまでセミナーを受けに来てくださったりいろんな先生と知り合えたりとこの業界を自由に歩けるようになりました。

この3年で自分を取りまく環境が変わりさらには2016年2月にはまた天狗にならないように全てをリセットするために自由が丘からほど近い奥沢駅前に移転をしました。

そして2016年2月18日 Solecka オープン。

さらには移転に際して屋号も solecka(ソレシカ)に変更し K-STYLE での業績や K-STYLE としてのこの12年の自分、そしてサロンの空間もリセットした.

例えればちょっと老朽化した船を変えはしましたが目指す地点は以前と変わりません。

乗っている船の船長がコトーである限りどんな船に乗ろうが飛行機に変えようがそれはあまりたいしたことではありません。

こうやっていろんな経験をして(どちらかというと失敗して気がつくことが多い)自分だけの生き方を追い求め、自分だけのテクニックを作ってきました。

その結果全国区の先生方に受け入れていただけるものができ、タイミングもあったとは思いますが『ことう式 あたまの整体®』DVD 発売後に業界の中で「頭蓋骨ブーム」が来たのだと自負しております。

2016年12月 DVD 新シリーズの『A to Z』を発売。
これは頭蓋だけでなく全身から頭蓋の状態を変えたり頭蓋から全身のあらゆる部位を変えたりするコトーの歴史が詰まったテクニック集を発売致しました。
ここでも若い世代の施術家から支持を得て結果好セールスに。
おかげさまで(株)カイロベーシックから2016年に発売された中で一番売れた DVD になったようです。
さらには神戸、沖縄、仙台等の外部でのセミナーも増え、2017年からは札幌や福岡でのセミナーも開催するに至りました。

これからも『ことう式 あたまの整体®』と『A to Z』という『新世代の整体調整法』で整体業界に、また、一般社会になにかお役に立てられればとても嬉しいです。

最後に

このような長文を最後までお読みいただきありがとうございます。
これが Solecka オーナー古藤 格啓 (Tadahiro KOTO) のリアルライフです。
ぜひリアルでお会いできることを楽しみに Solecka でひっそりとお待ちしております。

整体師としての人生模様